2004年11月 初発 寛解導入療法

突然の入院をつげられ11月16日入院。  用意されていたのは詰所の前の個室。看護師さんたちに近いその部屋は、重症患者さんか、私のように初めて治療する人が入ることが多い。

入院当日初めてのマルク。何をされるのか、具体的な説明もなかったように思う。。骨髄の検査。と聞いたのかもしれないけど、それが何なのか、どんな風に検査するのか知るはずもなく。。K大病院ではナースステーションの横らへんのベットで入院中はマルクをします。ただただ麻酔の注射が痛かった。と覚えています。。しかも、胸骨からだったので痛みはきょーれつでしたweep   入院中お世話になるM先生が処置してくださって、思わず、『治るんですか?』ときいた。M先生は『治しましょう!!』と言ってくださった。

続いてCV(中心静脈カテーテル)を挿入。なんかねー、、この時も何されてるのかあんまりわからなかったんですよねcatfaceこの時の主治医E先生とM先生は、あんまり細かく説明してくれなかったような。。。治療のメニューも口頭での説明だけやったし。この時は、他の人はメニューをもらってる人もいるって知らなかったんやけど。。

で、その治療メニューは、ノバントロンとキロサイト キロサイトは24時間持続点滴で7日間。ずっと点滴がついてるなんて初めての経験やったwobbly

18日のデータでは、WBC7.6 HGB6.9 PLT27 貧血もいいとこフラフラのはずsad

最初の治療で飲むように指示されたお薬は  バクタ(カリニ肺炎予防) ジフルカン(真菌による感染を予防) ザイロリック(高尿酸血症のお薬) ダイアモックス(利尿作用があるお薬) マーズレン、ビオフェルミン、アルサルミン(胃腸のお薬)

お薬飲むだけでお腹いっぱいなかんじwobbly実は、子供のころから飲み薬が大嫌いで、薬飲むなら注射のほうがまし。。なんです。。抗がん剤が入ってなんか気持ち悪く飲めないからお薬のむのが辛かったなあ。。 

治療が始まり、2,3日して吐き気がでるようになった。。病院のご飯も食べられなくなってきた。。便秘にもなったし、そのせいもあったかもsign02この時まず食べられたのはインスタントのおそば。これがなぜかおいしく感じるcoldsweats01味が濃くてしっかりしてるから結構みなさん食べてるそう。。だけど、そればかりでは栄養が。。。と心配した母が、土鍋を持ってきて、おうどんを作ってくれた。それにお野菜やお豆腐いれたりして、どんどん一人鍋に進化していったcoldsweats01 血液内科の当時の病棟のパントリーは、お料理を作っている家族の人も多く、特に移植前の患者さんのご家族は『今のうちに食べささないとsign03』とおっしゃって、じゅーじゅーお肉焼いてる人もいて、夕方はちょっとにぎわってたcoldsweats01付き添いの家族同士もお友達になって、みんな『一緒にがんばりましょうsign03』って話てたそう。。

治療が終わって数日して脱毛も始まったweep少しずつ抜けていたのだけど、ある日看護しさんにシャンプーしてもらったら一気に抜けたsad鏡でみて驚き、悲惨な頭に涙が出て。。夕方きてくれた母と『ザビエルみたいやな』と笑い泣きしたshockわかってはいてもショックですよねー。。。

この治療のときは、真菌の数値があがって、ファンギゾンという点滴のお世話になることに。。。この時はけっこうご飯食べてたのに高カロリーの点滴もつけられてしまってずーーっと点滴と共にいるのが結構苦痛やった。しかもファンギゾンはポンプもついてるし。。

原因不明の熱もでた。毎日毎日熱がでて、あがってくるたびロキソニンを飲んだ。だんだん自分でも熱が出る前のかんじがわかるようになってたなあcoldsweats01薬を飲んだら30分くらいで熱がさがってくるんやけどいっぱい汗をかくから首にタオルをまいてて、看護しさんに『スポーツしたみたいですね』って笑われたっけcoldsweats01

看護しさんといえば。。。夜中の巡回で2時間ごとに部屋にこられるんやけど、私は熟睡できなくてよく起きていて、こられる度に手をふったりしていたら。。『てんてんさんいつ寝てるんですか?』ってきかれ『みんな知らん顔して寝たはりますよhappy01』って言われた。そうか、そうなのねーsweat01私は自分が起きてるのに挨拶しないのもなんかなーーdashと思って手を振っていたわけでして。。。そんなことしんでもいいんやねcoldsweats01

白血球はなかなか回復してこなかった。ずっと100以下の状態が続き、やっと300になったのは12月17日。それまでほんとに不安な日々だった。このまま白血球がたちあがってこなかったら。。。とか悪い妄想で。。とゆうのも教授回診の時に『立ち上がりがちょっと遅いね。。』と教授がいった一言が気になって。。この一言は私の運命を変えたかもsign03U教授のことは、またゆっくり書きたいのですが、温和なとても素敵な先生です。なんやけど、この一言以来みんなが遅い遅いって言い出してwobblyめっちゃ不安になったわけです。だから、17日M先生が『300happy01』(白血球が)ってデータの紙を持ってきてくれはったのよく覚えています。

あとで知ったのですが、看護しさんたちもすごく心配してくれてて白血球がたちあがってきたときには、詰所で『ばんざーーいsign03』って喜んでくれたはったらしい。。この話は看護師のN崎さんに退院する前にききましたhappy01

この治療の結果は寛解となり、順調にスタートすることができました。そして、化学療法が効くM2で8:21転座もあることがわかりました。

看護師さんたちとも仲良くなってきて、少しずつ少しずつ笑えるようになってきました。

白血球の立ち上がりが遅かって、時間がかかったため、年末になってしまい、次の治療は年明けにすることになり、ラッキーなことに年末年始は自宅で過ごせたのでした。

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白血病の告知

ずっと病気の記録をさぼってたので、告知編 書いてます。

乳がんの術後、放射線治療で約一ヶ月 毎日K大病院に通っていました。

やっと、治療がおわり、さあ、これから!!と思っていたころでした。何か調子が悪い。。ビネツがあり、風邪のようでもあり、だけど何か経験したことないようなしんどさを感じていました。そのうち、息もきれるし、おかしいなあ。。と思ってたのですが、『大病ふたつもする人なんていーひんて!!(いないって)』の友達や主人の言葉で、まさかこんなことになってるなんて思いもしませんでした。

そんなある日、乳がんでお世話になってるクリニックの先生から電話。。採血したところ、貧血がひどい、すぐに紹介状を書くからK大病院の血液専門の先生にみてもらいなさい。。その週末たー。の七五三を予定して、参観もあったので、『来週でもいいですか??』なんて、のんきなこと言っていた。ふらふらやったのに。。。『なるべくはやく行きなさい』って返事やったけど。。

週があけた月曜日、いっぱいの資料とともにK大病院に行った。血液腫瘍内科、と書いてあったけど、私には関係ないと思ってた。。貧血がひどいだけ、と思っていたので一人で。。病院に着き、熱を測るとやっぱりビネツ。。ベットで寝てまちますか??と看護師さんに言われ、処置室で待たせてもらった。自分はわかってなかったけど、病院の人たちはみんなわかってはったんやろうなあ。。長い長いあいだ待って、午後になって診察室に呼ばれた。入るなり、、、

先生『考えられる病気は急性骨髄性白血病です』いきなり言われた。shock

私『私はあと何ヶ月生きられるんですか?』

先生『治る可能性もあります』←先にそっちを言ってよpout

ちょっと待ってーーcoldsweats02白血病って 白血病??私が??うそ。。

あの不治の病の代名詞みたいな??貧血でふらふらのとこに、とんでもないこときいて

私『ちょっと横にならせてください』ほんまに倒れそうやったweep

先生『ご家族に連絡してください。ベットがあいてたらこのまま入院です』

う。。うそ。。子供が帰ってくるのに、洗濯もほさずに出てきたのに。。このまま帰れへんの??いったい、私はどうなんの??涙が出てとまらない。。。

先生『すぐ輸血が必要です』

私『えーーー!!輸血wobbly』(私は治療でいっぱい輸血をし今、生きています。いろんな方の善意の贈り物で生かされています。知らないあなた。ありがとう。。だけど、この時は、輸血さえも恐ろしいものと感じていました。。)

先生『ふらふらでしょ。。』  たしかに。。。

結局、ベットがあいてなくて、いったん帰って翌日入院になったのだけど、血小板、赤血球の輸血だけはしてもらった。父と主人がかけつけてくれて。。私はずっと泣いていて、みんなに『ごめんなごめんな』としか言えず。。『なんであやまるねん。あやまらんでいい』っていわれても、やっぱり出てくる言葉は『ごめんな』で。。。

それにしても。。みんなこんな告知の仕方なんかなあ、、もうちょっと方法はないんやろうか。と今になっても思います。。

この先生は他の病院にいかれたので、現在の主治医とはちがうんですけど、あんまりおしゃべりもしてくれなくて、様子もみにこない先生でした。(ちょっと文句coldsweats01)コミュニケーションとるのが苦手な人だったんですかねえ。。『一緒にがんばりましょう』みたいなんもないし。。

初めてのムンテラ(先生との面談で病状説明や治療の説明を家族と一緒に聞く)のとき、病気の説明で、

『この病気はほっておいたら必ず死にます』と言って、紙に 死 って書かはったんですよね。。gawk。(それくらいは知ってるっちゅうねんbearing)おまけに、アンディフグ とか 夏目雅子さんって名前だすし。。。渡辺謙がやはるやろ!!最近やったら吉井玲もやはるやん!!今やったら、なんでもっと希望をもてるように言葉を選んでくれへんのか!!言い返すかもしれないけど、当時は ふらふらのへろへろで話きいてるのがやっとで。。聞いてるだけで倒れそうやって。。結局 そんなムンテラでますます落ち込み。。はじめの治療のときは泣いてることが多かったです。だから、父が怒って(先生に対して) 自分が言うと、きつく言ってしまいそうやからって 主人に私や家族がどんな風に思っているか、、どんな風に言葉を選ぶべきかってことを主人から伝えてもらいました。伝えたのは、上の主治医ではなく、医員の先生でしたけどね。。(この医員のM先生は、とってもやさしくて、ホワイトデーにおいしいチョコケーキもらったり、初発の退院時にはこげパンの本をいただき、再発して入院してたときは、ととろ のキーホルダーくれはったんですよ。。今もお守りです。。)

  でも、元気のない患者って、いやなこと言われても、言い返すこともできないし、泣くしかないんですよね。。私の場合 家族が言ってくれたけど、がまんしてる患者さんもいらっしゃるかもしれませんね。治すためには、気持ちも大切なんやから、先生方忙しいのはわかるんですけど、希望を持てるような発言もほしいですよね。。厳しい病気ってことはみんな知ってるんやから。。

っと文句たらたらになってしまいました。。厳しい病気ではありますが、治る可能性はあるsign03だから、今 闘ってるかたも 良いイメージで 絶対治ると信じてくださいね。私もそう信じてますconfident

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うれしいお知らせ♪

はじめに。。セカンドバースデイの記事に、たくさんのメッセージをありがとうございました。同じ経験をして1年を迎える事のむつかしさを知ってるみなさんからのメッセージは本当にうれしいです。これからも、みんな元気でいましょうね^^。そして、1年たった事を覚えててくれた友人たち。。本当にありがとう。みんながいたから帰ってこれました。

そして。。昨日の夕方、先生から電話。そうマルクの結果です。結果は、じゃーーーん!!腫瘍細胞はありませんでしたーーー!!私は8;21転座があるので遺伝子レベルでの検査がありますが、そこでも今回は陰性だったそうです。やったーーー!!移植後も測定感度以下ながら、残っていましたが、今回は検出されなかったようです。。ただ、電話なので、大丈夫だったときいただけで舞い上がってしまって、あとになって、ん??こう言ったはったよな。。たしか。。なのですが、とにかくなかったのだからうれしくて、家族や友人に電話やメールしましたよ。。兄に電話したら泣けてきて。。でも、今回はうれしい涙♪感謝の涙♪ 悲しい涙をいっぱい流したけど、今回はちがいます。。まだまだ先は長いけど大きく一歩前進できました^^ 友達からのメールで、『てんてんちゃん春が来たな♪』ってまた泣けました。

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再発。再寛解導入。。2006年11月~

その日は身体も調子が良く、採血の結果も良好で、マルクも大丈夫と信じていた。。先生にも「大丈夫ですよ」と言われ安心して帰ってきた。。それなのに。。夜主治医から電話。。「骨髄中に8%芽球がみつかりました。再入院して化学療法が必要です」「。。。」私は言葉を失い目の前が真っ暗になりその場にくずれおちた。。緊急入院ではないけれど、たぶん猶予は一週間か10日。。次は移植になるだろうこともわかっていた私は不安で怖くて涙がとまらなかった。。その場にいたパパも信じられないといった顔で、長女も長男も泣いた。。兄と両親がかけつけてくれた。。それでも心は真っ暗でどうしようもなくあとからあとから涙があふれてくる。。。でも、みんなの日常をすごしていかなくてはならない。。このとき、私より先に再発したTちゃんに思わず電話した。「おちつきや。。前に進むしかないんやで」とさとされ自分も治療中なのにはげましてくれ、その後おいしいみかんとお手紙が届いた。。まだ家族とすごせる時間を大切に。。と書いてあった。。翌日、親友のK。。それからMちゃんがわざわざきてくれた。。この時のことはずっと忘れない。。近所の友達もかけつけてくれた。。泣きはらした顔の私に力を与えてくれた。。はげましてくれたMちゃん一緒に泣いてくれたIちゃん心配してくれたMさんIさんSちゃんママMちゃんママみんなみんなありがとう。。入院しなければならない私にみんなが子供たちの誕生日パーテイをひらいてくれた。。二人の子供は11月と12月が誕生日。。また、いてやれない私へのプレゼントだった。。長男の卒園式、入学式のころの予測もつかなかったので今できる準備を。。とランドセルとスーツも買いにいった。。スーツ姿この目でみれたらいいなあと思いつつ。。心は暗闇ながら園バスの送り迎えやサッカーのお迎えなど今自分にできる事はこなした。。幼稚園にいくと、先生方ママ友達が笑顔ではげましてくれ、ちょっとだけ元気がでた。。そしてついに入院の電話がかかってきた。。まだ体調も良く、髪の毛もやっとのびてきたところだったのでかなりブルーな気持ちで入院した。。この時、入院中お世話になる医員のK先生に出会った。「根拠はないけど、なんとなくうまくいく気がします」会ってすぐそう言って下さった。この言葉は私に大きな希望を与えてくれた。。この先生なら任せておけば大丈夫!!そう思える先生だった。先生に出会わなければ、精神的な部分がずいぶんちがったように思う。

移植までは二回の化学療法。。メニューはキロサイト。ノバントロン。フルダラ。まず一回目の治療でお尻の粘膜がやられて白血球が100以下の時に苦しんだ。。今まで経験したことのない激痛。。先生方も対策を考えてはくださるのだけれどこの種の痛みには効く薬がないとのこと。。何日も苦しんだすえ、最終的には麻酔科から処方された麻酔のゼリーで緩和していくことに。。そうこうしているうちに白血球がたちあがってくれて傷はどんどん治っていった。白血球ってすごい!!回復期が年末年始と重なって家に帰れる事になった。なにもできないけれど、やっぱり家はいい^^年があけて二回目の闘いがはじまった。。粘膜障害がひどかったので、今回はフルダラ。キロサイト。治療後半あたりから吐き気でつらかったけれど大きな問題はなく順調に終了できた。この治療の時、一度だけ子供たちを病室にこさせてもらうことができた。。二人で仲良くベットにあがってきてくっついてはなれなかった。。さみしい思いをさせてるんやね。。ごめんね。。そう思った。。子供たちは、ベットまわりのカーテンを使い影絵をしたりして楽しませてくれた。この子達のためにも絶対元気にならないと!!そう思った。。

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骨髄移植の事

2006年3月2日再入院。翌週から移植の前処置がはじまる。。TBIシュミレーションをうけ、翌日にはCVカテーテルを挿入した。。と、これで治療開始の準備が整った。。で、さっそく夜には外泊へ^^;この週末は長男の幼稚園最後の発表会。。なんとしても見に行きたい。着替えを手伝ってやりたい。主治医の先生にもお願いしていたので、予定表にも外泊と記入されていた。本当は移植前に幼稚園のようなところにいくのは菌をもらう可能性が高いのでよくないと思うのだけれど卒園式にも出席できない私はこれだけはなんとしても行きたかった!!強力マスク装着で我が子の発表会へ^^;でも、このとき行けてよかったなあ。。と今でも思う。。そして、病院へもどる。。7日から前処置開始。まずフルダラ5日間投与。この時はまだ余裕^^;次にアルケラン2日間。ここから吐き気で食事がとれなくなった。高カロリー点滴のお世話になることに。。今まで一番最初の治療以外は高カロリー点滴のお世話にならないようしっかり食べてきたが、今回ばかりはどうしようもなかった。。でも、クリーンルームではコーンスープを飲んだりしてました。どこまでも食い意地のはってるわたしです。。TBIを経て15日兄の骨髄液を移植。。朝、兄にありがとうとメールした。必ず助ける。と返信がきた。。涙がでた。。。だるさや吐き気、下痢にはなったが先生にいわすと軽いほう、らしかった。そして26日、白血球が300に!!兄の細胞が造血をはじめてくれた!!思いもかけず、はやいたちあがりでとってもうれしかった。。でも、このころ高熱がでた。何の熱なのかわからなかったけれど、生着の時、熱がでるのはよくあることらしい。兄と私は拒絶方向に3座。GVHDの方向に1座ちがうミスマッチ移植だったけれど、日本でも海外でもバンクにあう人がいない私には最良の選択だったようだ。ちがうというものの、こまかくみると、A..。B。Cそれぞれの座がまったくちがうわけではなく、ひとつづつ同じ物があったのもよかったのだと思う。血液型も同じだったので、移植のとき、赤血球の輸血は一度もしなくてすんだ!!クリーンルームで過ごした3週間。。最後のほうは本当につらかった。。常時送られてくる風の音がすごいストレス><で。。。それでも私は順調に進む事ができて本当に感謝感謝です。。GVHDとしては、グレード1の皮疹がでました。HHVV6で点滴をしたりしたけれど今のところ大きなトラブルなく過ごしています。

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退院してから現在2006年5月~2007年1月の事

移植後DAY49で退院。。うれしいような不安なような、全く自信がないまま帰宅。。退院してまもなく、血小板の減少があり、マルク><だったのですが、移植後で不安定なんでしょう、との事でした。でも、マルクといわれた時はへこみましたよ。。今は安定してますよ。

最初は少したって用事するだけで息がはーはー><階段をのぼれば心臓ドキドキ。。

なんとも情けない状態でしたが、少しずつ少しずつ体力はもどってきています。

あつーい夏は日差しも強くなかなか外にもでられませんでした。この頃、母がとても助けてくれました。この歳になって母のお世話になるなんて思ってもみませんでしたが。。母なしでは日々の生活もおくれなかったと思います。本当に感謝です。父も母の送り迎えも大変だったろうし、みんなの協力がなければ私の生活はなりたちませんでした。二人とも仕事をしながらなので大変だったと思います。本当にありがとう。。

また、夏に乳腺外科からうけた骨シンチの検査で淡い影を指摘され、その後エコーで

胸に小さなしこりもあるとのことで、PET検査MRIとうけましたが、異常なしとの診断で

ほっとしています。まだ体力のなさを感じていますがぼちぼちやってます。。

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